online哲学カフェ “電子問答連” 

 文字通りのパンデミックが地球規模で起っています。世界各国においては様々な取り組みが行われなんとか新型コロナの蔓延を食い止めようとしていますが、十分な成果が現れているようには思えません。とりわけわが国の対応は、「マスク二枚の配布」が噴飯モノであることを改めていうまでもなく、後手後手の感があります。また、経済と命を天秤にかけるような政策的な誤りがあったようにも見えます。

 一方で、「今は事態を収拾することが先決で政府の批判をするときではない」との意見もあります。しかし、全国民が一丸となって取り組むことの怖さは、「一億火の玉となって」であろうと「一億総懺悔」であろうと明治以降の中で何度となく見てきた光景です。こうした状況であればこそ、個々の人間が自分の考えを表現し他人の考えに耳を傾けること、すなわち「対話」することがいかに大切であるかということをいわなければならないと思います。

 5月から開始する予定で計画を整えた第六期哲学カフェは、コロナの蔓延で世話人の力ではゲストや参加していただく皆さんの安全を保障することが難しいと判断し中止を決定しました。しかし、先の状況を勘案した上でなんとか「哲学カフェ問答連」を予定通り開催することはできないかと思案してきました。

 その上で、各自が在宅しながらインターネット上対話することが可能ではないと考え新たに「電子版問答連」の瓦版を発行しご案内することとしました。なお、従来参加していただいた方の中には、デジタル・デバイドによって今回はその環境が整わない方もおいでになると思います。誠に申し訳ないことだと思いますが可能な限り従来の「瓦版」において事後報告の形になるのですがお届けしたいと思っています。

 なおインターネット上で使用するツールはZOOMというシステムを使いたいと思います。使用方法については別項にてお知らせしています



電子「問答連」第2回 「対話」が成立するためには、何が必要か?
― 哲学カフェの経験から ―

永井 良和(世話人)

 6月27日(土)2時から4時までの予定です。

 哲学カフェという言葉は、皆さんには、なじみがないかもしれませんが、このようなとりくみは、各地にあり、居場所作り的なものから対話の深まりを重視するものまで、いろいろなタイプのものがあるようです。もともとこのとりくみは、朝日新聞に「折々のことば」を連載されている鷲田清一さんがはじめられたそうで、この会でも足かけ5年にわたって、ほそぼそとやってきました。うまくいかないときもありましたが、やってきてよかったと思っています。とくに、この場がなければ出会うことのなかっただろうさまざまな世代のさまざまな考え方の人たちとであって、いろいろなテーマについて話せたことは、貴重な体験でした。

 前回の哲学カフェで、文章を送って参加された方が書かれていたように、今の日本社会は、「対話」、とりわけさまざまな立場や考え方の違いをのりこえた対話が、成立しにくい社会になっているとつくづく思います。もちろん、いつの時代にも思想や考え方の違いによって、たくさんの対立がありました。でも、現在、日本だけでなく、ヨーロッパやアメリカで起きている、思想や政治的な立場をめぐる鋭い分断や対立、あるいは「ポスト・トゥルースの時代」という言葉に象徴される、「ことば」への不信感には、強い不安を感じます。

 わたしたちが、言葉や会話、対話を離れて生きていけないことは、明らかです。でも、あらためて「対話」とは何かを考える機会は、意外と少ないかもしれません。会話や対話の本質は、どこにあるのでしょうか。あるいは、わたしたちは、会話や対話に何を求めているのか?どういう時に、対話がかみあい、どういう時に対話が失われるのでしょうか。 たとえば、平田オリザさんの「わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か―」という本では、「対話」を損なうものとして、日本人特有の「わかりあえるはず」という思想の弊害が強く指摘されており、とても説得的です。しかし、他方で森田伸子さんの「子どもと哲学を」という本で紹介されている、自死を選んだ子供たちの悲痛な声には、「ことば」が伝わらない絶望感と、わかりあうことを拒否する、深いニヒリズムが響いています。これらの材料を通して、語り合うことの意味について少し深く考えてみたい。日常の場面から、政治的な対話の場面まで含めて、「対話」が生み出す力と、逆に「対話」が失われていく理由について、みなさんそれぞれが感じておられることを語り合えたらと思っています。


【資料】

 米国ハーバード大学教授であるキャス・サンスティーン氏は、市民の熟議が織りなす民主主義を意味のあるものとするために必要な要素として二つを挙げています。

 ひとつは、できるだけ多くの「意図しない出会い」を人々が体験することで、サンスティーンは「セレンディピティ」と表現しています。現在は情報のフィルタリングが非常に進んでおり、各個人はそれぞれの嗜好に基づいてアルゴリズムが予めアレンジした情報にのみ触れがちです。これにより社会の分断と断片化を引き起こす危険がありますが、たとえばフェイスブックの運営陣は、むしろこうした影響を肯定的に捉えようとしています。

 もうひとつの要素が、大衆の共有体験です。各個人が独特の体験を得つつも、あるものを国民の多くが共有することによって、異質な思想を持つ者同士の接着剤を果たすとされています。その例としてサンスティーンが挙げているのが、スターウォーズであり、ワールドカップであり、そして今回のトピックでもあるオリンピックです。思えば私の父(60代)は、現世代とは異なる「世代の共有体験」を多く持っているように思われます。たとえば大阪万博や国民的テレビ番組です。誰でも知っていて、否定的論調で語る人を(私は)あまり見たことがないトピックです。

 私自身、東京オリンピックは必要ないと考えてきました。社会的弱者に目配りがなく、利益誘導の側面も強くにおわせる税の荒っぽい使いみちには反対です。しかし昨今の社会を思いますと、オリンピックに役割はもはや無い、とまで言い切ることが出来ないでいます。というのも昨今は、いざ口を開けばやれ左翼だ、やれネトウヨだと、とにかく他者をカテゴライズして交わることのない檻に閉じ込めようとする力をとても強く感じるからです。ふだん、何気なく言葉を交わしているかもしれない人々かもしれないのに、です。コンビニで微笑みかけた店員が、昨日ツイッターで罵倒した人かもしれない。逆に道路で口喧嘩になった相手が、昨日インスタグラムでフォローしあった相手かもしれない。

 こうした現状に風穴を開ける力を、ナショナルイベントとしてのオリンピックは今でも持ちうるでしょうか。その熱狂を、大衆扇動としてではなく、立場を越えて連帯する力として賢く受け入れることは今の分断が進んだ日本は出来ないのでしょうか。オリンピックが、他に替えがたい魅力を未来にわたって持つことが可能だとすれば、私たちと政府の関わりはどのようであるべきでしょうか。(岡村友章 大阪府)


「ZOOMの使い方」について

 インターネット上でご参加いただくには次の手順で事前の作業をお願いします。

 @参加していただくためには、PC(コンピューター)またはスマホ(アンドロイドでもアップルでも可)をご準備ください。PCの方は、マイクロフォンとWEBカメラをご用意ください。

  A準備ができましたら、開催日の前日(第1回の場合は5月22日金曜日)までに下記のアドレスまでにメールを送付してください。

 B開催当日の1時までに、「招待メール」を送付させていただきます。

 CすでにPCにZOOMソフトがインストールされている場合は、メールに記載されているアドレスをクッリクしていただければ参加可能のとなります。そうでない場合は、アドレスをクリックしていただければソフトをインストールしないで参加できる手順が示されます。この際、「サインアップは無料です」との表示が出ますが無視する形で進んで頂いて、ひたすら「会議に参加する」ことを選択してください。

 Dスマートフォンでの参加をご希望される方は、ZOOMアプリがインストールされていることが必須となります。事前にお済ませください。

 E参加していただく場合それなりの設定をしておくことで「匿名」とすることが可能です。

 F当日1時からテストのために約30分程度ホスト局を開設しておきます個人設定にご利用ください。