第2回哲学カフェ“リベラリズムの行き詰まり”

参加していただいた方の感想
みなさん一人一人のお話がとても面白かったです。政治的なことにもかかわる話は、どうかなと思っていましたが、文化の問題、情報の問題、自然とのかかわり、教育の問題など幅広い話題にお話がひろがり、世代のちがう人たちのお話が、とても刺激になりました。こういう場が大切だなとあらためて感じました。(発題者 永井)
今日はありがとうございました。「リベラル」という言葉をよく聞きますがその言葉が他の言葉と結びつくことで、その全体の意味がわからなくなることがよくありました。でも今日「リベラル」という言葉の本来の意味を考えて「自由」とはなにか「平等」とはなにかを考えるきっかけになりました。一つの事柄について深く、またいろんな方の話を聞きながら《考える》ということを久しぶりにした気がします。ありがとうございました。
リベラリズムとコミュニタリアリズムをめぐる議論を皮切りにそこから射程遥かに様々な現代世界の問題について話し合うとてもエキサイティングな場。皆さんのこれまで生きてこられた哲学が大切な想いとともに寄せあわされて、素敵な場に居合わることができて、とても嬉しく、大いに学ばせていただきました。同じように世の中についてかんがているように見えて、世代によってここまでアクチュアリティが異なるのか、ということがまず一番の驚きでした。同じ町に住んでいるのに、まったく異なる世界感覚で生きているのだなぁと…。自らの世界に閉じこもって一貫性をもちつづけることで世界を納得するのは簡単なこと。様々な考え方に頭と心を外に開いて、世界が複数に同時にあることを寛い心で感じつつ、それぞれが学びあっていくことの大切さをつよく想うことができた、素晴らしい機会でした。いつも貴重な機会をいただき本当にありがとうございます。
リベラリズムを中心とする問題提起は、私も関心を持っている西洋思想の重要分野なので、とても興味深く拝聴しました。自由主義も共同体主義も多義的な概念なので一概に論ずることはできませんが、近・現代を貫く社会思想なので、これらの思想の人間的意義と限界を解明することなしに、新たな未来社会を展望することはできないと思います。その意味で話題提供者が、個人主義的自由主義(個人の権利と選択の自由;サンデルの引用)を批判的に捉えて、道徳や宗教、正義以外の善や連帯について考えることの必要性を示唆しておられるのは共感します。さらに私的には、個人主義や自由主義の背景となった「西洋的合理主義の限界」についても問いたいと思います。参加者の発言からも、日本的家族や途上国の感性についての事例提供があり、自由と理性だけで社会が成り立っていないという感を強くしました。このような西洋近代主義(の限界)についての議論が、哲学カフェでさらに深まることを期待しています。
齢七〇に近づいて越し方を考えてみると、まさに「戦後民主主義」の只中に生きてきたと、改めて実感します。「リベラル」こそ日本の民主主義を育てあげるものだと信じて疑いませんでした。ですから「共同体(コミュニティ)」に囚われている個人からいかに脱出するかが課題でした。しかし、「世間」のしがらみに生きているのが日常的です。この二つのバランスをどうとるのかというのが大きな問題だと想います。永井さんの問題提起もそこにあったのではと…。 
これまで、「主義と主張」はワンセットのように思っていたけれど、最近は政治家の発言も、ネット上で飛び交う様々な言論(と言えるのかな?)も、どこに背骨があるんだろうと感じることが多く、そういう意味ではリベラリズム含め○○主義に基づく「ことば」というのは“絶滅危惧種”のようなものなのかも…。守るべきか、自然淘汰されるのか…。
なんどかこの哲学カフェに寄せていただいていますが、今回はいつものようには平均年齢が高くありませんでした(笑)。というのも海外で活躍されている若い方、まだ十分離乳していない子どものお父さんなど、世代を超えた人たちの集まりでした。こうした方々のお話を聞くと、なんだか「柔らかい思考をするように」と促されているように団塊の世代には感じられました。

第2回 哲学カフェ “問答連”での様子です。