第2期第5回哲学カフェ“言語としての手話からことばを考える”

参加していただいた方の感想

●現場での詳細な体験を聞けてよかったと思います。将来的に(聴こえないことが)個性として過ごせる時期が繰ればと願います。  

●高井さんのお話がとても具体的でよくわかりました。私もほんのちょっとだけ知り合いのおばさんに手話を習っていて、学生のころの話をよく聞きますが、学校で手話を習えずとっても苦労したとのことでした。手話は少しも上手になりませんが、その人とならなんとか分かるのが長いつき合いということでしょうか。つき合うことの大切さを実感しています。

●よくわからないけれど来年もやっていただければと思います。現場での詳細な体験を聞けてよかったと思います。

●高井さんの話題提供は、教育現場の手話教育や難聴児との具体的な指導事例が、生き生きと語られて、わかりやすい話に引き込まれました。聴覚障害児教育が、 医療面や発語訓練で、かなり進んでいながら、多くの 残された問題があることが分かりました。学校や社会の側で、どのような取組があるのか考えさせられました。ありがとうございました。

●手話という言語と音声言語のさまざまな性格の違い、音のある世界と音のない世界、聴覚に障害のある人が、日本語という音声言語や文字言語に囲まれた環境の中で、言語を習得していく際のさまざまな道筋の問題。聴覚障害の子供たちの教育における、インクルージョンの課題とピアグループの大切さなどなど、さまざまな、興味深いお話をお聞きし、手話という言語と音声言語のさまざまな性格の違い、音のある世界と音のない世界、聴覚に障害のある人が、日本語という音声言語や文字言語に囲まれた環境の中で、言語を習得していく際のさまざまな道筋の問題。聴覚障害の子供たちの教育における、インクルージョンの課題とピアグループの大切さなどなど、さまざまな、興味深いお話をお聞きし、時間があれば、それぞれのテーマについて、もっと、もっと深めたいと感じました。教育という領域や障害という領域を離れても、言葉というものの不思議さを考えるきっかけになったように思います。語り合うというより、教えていただくという面が強かったかもしれませんが、また、これらの学びをベースにして、コミュニケーションそのものについて、語り合えたらいいなあと思いました。ありがとうございました。

●まず一夜明けて思いだしてしまうのは、ぼくの耳が8000Hzまでしか聞こえなくなっていることへのショックです。つまり耳を大切にしなくっちゃというメッセージがこびりついてしまったわけです。これ、話し手の意図値は違うなと思いながらも、けっこう気になっています。たぶんぼくもどこかでしゃべったら、目を大切にしなくっちゃという印象を残してしまってるのかもしれません。合わせて、「見えへんのにえらいなぁ。」、これはぜったい残してしまいますね。 さてさて次に話す時は、戒めとリスペクトを与えつつ、少しだけその気持ちをずらせて終わりたいものです。障害者が取説を作ることで、見られる側、評価される側から自らメッセージを送る側になる必要性をつくづく感じました。見えない人は、一人歩きできるようになるのが一番の目的だと教えられてきましたが、ヘルパー制度も整いつつある今、何をどのように手伝ってほしいか、したいことはどんなことかを伝える力が大切だとうようになってきました。 ああ、それにしてもいつもパソコンの音を聴き続けて読書も、メールもして、さらにiPhoneも音声でやっていると耳が早く老化するんだろうな。親父も耳が遠くなってるし、音声ばかりに頼らず点字を見直した方がいいかも。

●テーマ設定はどれも興味があるものでしたが、それぞれの人の考えを引き出すということがなかなか難しいことなのだと思いました。コーディネータの役割が十分果たせていないのではないかと感じました。つまり、コーディネータ自身の興味・関心が先行してしまうということがあったようです。

●第三期には、お金・死・贈りもの・普通などのテーマを取り上げてほしいと思います。なかなかやっかいな問題ですが、価値はあると思います。

第2期第5回 哲学カフェ “問答連”での様子です。ご覧ください。