第2期第1回哲学カフェ“私たちにとっての宗教―今の時代と浄土真宗―”

参加していただいた方の感想

 大須賀さん、貴重な話題提供有難うございました。

 西洋哲学を学ばれ、浄土真宗の信仰に入られたそうで、信仰上の深い話を、特定の宗教に囚われない広い視野から話していただきました。宗教的信仰は、単に哲学的・知的探求にとどまらず、人間の生き方にかかわる主観性の強い心の状態なので、説明するのが難しいと思います。しかし、ギリシア哲学やデカルトなどの哲学的伝統をふまえて抑制的・客観的に自己洞察されていて、理解しやすいものでした。

大須賀さんの説明から、わたしには、「信仰」と「疑い」という究極の矛盾の中に「自由」を見いだすことが、本当の宗教性でないかと思われました。つまり、 「疑い」(人生苦、煩悩、業縁)を避けることはできないですから、疑いの中で「自由」(救い、お陰)を求め続けることが、親鸞の教え(真宗)ではないかと 感じられました。

 そしてその究極の矛盾を超えたところに阿弥陀仏がおられ、すべてを委ねることのできる安心感に支えられて、信仰が成立しているののかなと思いました。 (でも、阿弥陀仏や絶対神の存在を疑うとき、その存在によって得られる救いとしての自由は一体どう なるのでしょう。もっと時間があればそんな話もしてみたいです。)

 自由、救い、安心、疑い、不安など考えるべきことが多く、さらに哲学カフェで楽しめそうです。ありがとうございました。  

「宗教」観には様々あるのだなぁと思いました。「共生をあきらめない」事はそうだなぁと思いますが「宗教」によってのみ…とは思いません。でも相手の話をその立場になって聞く事かあかなぁと思います。「宗教」から離れて生きている私にとっては「理解」はしているつもりでも「必要性」は今のところ感じられないので、またお話をききたいなぁと思いました。有り難うございました。

最初は「縁のないテーマだなぁ」から始まり、途中ちょっと近づいたかなと思いましたが、最終的にはやっぱり距離感を観じました。具体的なイメージがしずらいものごとについて「対話」をする、あるいは「対話を生む」ためには、やはり想像力?

「難しい言葉は使わない」という約束は嬉しいのですが、お話の中で時々置いてきぼりをくったようなことがありました。「やさしく話す」ことは難しいことなのでしょうか。

和の家で、いろいろな話しを聞かせて戴きましてありがとうございました。思わぬ機会を得させて戴きました。

楽しかったけどレベルが高いなと思うけど。またきてみたい。

最後に言われた事は整体の稽古につながる気がしました。私の言葉で表現すれば「客体に裏打ちされた主体」といいましょうか、客体無き主体は殺し合いに行き 着くでしょうし、主体無き客体はおそらく“人間”と言えないのではないか…と。探究は続きます。宗教家に落胆することが多かったので心強く感じました。

発題をさせていただいた大須賀です。ボクは話すことが苦手なのですが、皆様のあたたかく寛大な人柄に助けられて、少しは話すことができました。ありがとうございました。

第2期第1回 哲学カフェ “問答連”での様子です。ご覧ください。